ご祭神・由緒

由緒略記

  • 御社名:大野神社<おおのじんじゃ>(旧社格 郷社)
  • 鎮座地:滋賀県栗東市荒張896番地
  • 本社:本殿/祭神:菅原 道真 公<すがわら みちざね こう>
  • 境内 摂社<せっしゃ>:三社殿(出雲社)/祭神:出雲大神・恵比寿大神・八幡大神
  • 境内 末社<まっしゃ>:水分社<みくまりしゃ>/祭神:天之水分神<あめのみくまりのかみ>(里の神)
    金勝山<こんぜやま>の 分水嶺<ぶんすいれい>である龍王山<りゅうおうさん>山項の古祠<こし>(天之水分神を祀る)は当神社のご本神(山の神)である。
    のちに年代は不詳であるが、現在のこの場所に「里の神」として同神のご分霊を祀ることとなる。
    今日も五月の例大祭<れいたいさい>前には、ご本山に上がり龍神祭<りゅうじんさい>を斎行している。
  • 境外末社(氏子地域内)社名:
    春日神社(東坂地域)・松倉神社(中村地域)・中山神社(蔵町地域)・白山神社(観音寺地域)
  • 兼務社:春日神社(荒張地域)

御由来

創祀<そうし>年代不詳であるが、社伝に天徳<てんとく>三年(959年)勧請<かんじょう>とあり、また古典・所伝によると、元慶<がんきょう>六年(882年)以前より社のあったことがうかがわれる。

聖武天皇の勅願により、奈良の都の北東(鬼門)の方角に位置する地に、国家鎮護の霊山として金勝寺<こんしょうじ>を建立した際、この地は大野神社の元の名所である天神社<てんじんしゃ>[祭神=天之水分神(水の神龍神)]の統領座<うしはきます>地であったことから、好むと好まざるに関わらず仏教主導の宗教政策の大波にのみ込まれ、明治二年の「神仏分離令<しんぶつぶんりれい>」を受け、社名を大野神社と改めるまで神・仏ともに共生し歩むこととなる。
上記の天神社はのちに狛坂天神<こまさかてんじん>・於之宮天神<おのみやてんじん>等と名称は変えられて来ているが、現在境内末社である水分社がその大神社である。

また、寛平<かんぴょう>九年(897年)、権大納言 菅原 道真 公が勅使として金勝寺に参向された折、当神社に滞在された由縁や道真公歿後の天神信仰を受け、天徳<てんとく>三年、於之宮天神<おのみやてんじん>(天之水分神)の社横に於之宮天満宮祭神=菅原道真公を祀った社が創建された。これが今日の大野神社であり、本殿・拝殿・楼門は天満宮としての建造物である。
この天満宮創建の後、創建は不詳であるが出雲大神・恵比寿大神・八幡大神の三神が一体となった社が新たに祀られる事となり現在に至る。
今日でも「学問の神」・「農耕の神」・「天候を司る神」・「勝負事の神」などとして信仰を色濃く残し、古来から残る祭祀を大初に受け継いでいる。

本殿例大祭楼門

文化財

「楼門」:国の重要文化財

東向きに建つ三間一戸の門で、屋根は入母屋檜皮葺です。
平安末期の様式を残した鎌倉時代初期の建物で県下楼門の遺構の中で最古です。

楼門

「三社殿(出雲社)」:栗東市指定文化財

一間社流見世棚造<いっけんしゃながれみせだなづくり>で、檜皮葺屋根の小社。
出雲社・八幡社・恵比寿社を祀る。

三社殿

「十一面観音立像・脇仏二体」:栗東市文化財

本尊:十一面観音立像(平安末期)※
脇仏:混沙門天立像 (室町時代)
脇仏:不動明王立像 (江戸時代)
神仏習合時代の本地仏<ほんじぶつ>※で、神主の屋敷内にあったがために明治ニ年の神仏分離令や 廃仏毀釈<はいぶつきしゃく>にも免れ、のちに現在地に移した三仏像は栗東市文化財に指定されている。昭和五十六年(1981年)に約七ヶ月をかけて解体修理を施し現在に至る。

十一面観音立像と脇仏

脇仏(不動明王立像)本尊(十一面観音立像)脇仏:混沙門天立像

※本尊について
頭体を通し、左手肘までと右手前膊半までを含んだ木心を像背近くに込めた檜材の一本造り、裳の一部に漆箔の跡を見せる。腰を左に捻る体部は太く、量感に作られた古様です。目鼻立ちはやや小ぶりに表され、顔中央部に集まっている。11世紀の作風。
※本地仏について
神仏習合のこの時代、仏教思想からすると神道の神と仏教の仏は一体視され 特に仏教主導の政策のため、絶対的な存在である仏(本地<ほんじ>)が日本の神々の姿をとってこの世に現れ(垂迹<すいじゃく>)人々を救うと考えられた「本地乗迹説<ほんじすいじゃくせつ>」により、当神社の十一面観音立像は主祭菅原道真公として祀られたものと思われる。

「鰐口<わにぐち>一口」:栗東市文化財

大永六年(1526年)の作。
観音堂の正面軒下につるす金属製の音響具(金鼓)。

宝物

  • 木造狛犬<こまいぬ> 一対
  • 飾太刀<かざりたち> 一振(伊賀守 藤原 金道 作)
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